明治神宮の森と兄弟分である六甲山や玄吾の杜と
本多静六の関係やその植生や治山の歴史について

六甲山の北麓、有馬温泉のすぐ脇にあり、六甲山の北麓に位置します。
裏六甲とも言われるエリアです。

玄吾の杜は、歴史的な事実から考えて、
かの有名な「明治神宮の森」と兄弟とも言える森です。
何故ならば、同時期に同じ人物が森の設計を行ったからです。
その人物が本多静六です。厳密に言えば、先に六甲山の森林設計をし、
その後に明治神宮の森に着手しています。

明治神宮の森は国の宝として大事にされる森で、
一方、六甲山の森は、このような事実にほぼ着目されることなく、
やや不遇な扱いを受けていると私は個人的には感じています。
この点にも着目しました。

ここでは、この六甲山や玄吾の杜と明治神宮との関係、
つまり、本多静六との関係に着目し、研究資料として残す目的として記録します。

六甲山や玄吾の杜を治山した本多静六は、その業績から、
「六甲山に木を植えた人」というより、「六甲山を再生する設計思想を示した人」と言えます。

その理由を流れに沿って整理しましょう。

① 明治時代の六甲山は
「山」ではなく、ほぼ岩肌だった

当時の六甲山は、燃料としての伐採、山火事、放牧、過度な利用が長く続き、
山全体が「はげ山」になっていました。
その結果、

雨が降る

    ↓

表土が流れる

    ↓

土砂災害

    ↓

布引貯水池に大量の土砂が流入

という状態であった。

② 神戸市が本多静六を招く

神戸市は、東京帝国大学教授 本多静六に協力を依頼します。
目的は、六甲山をどうすれば森へ戻せるのかを科学的に設計してもらうこと。

樹種選定

植林計画

治山計画

を担当します。 

③ 本多静六は「まず木を植えるな」と考えた

これが最も重要です。
木は土がないと育たないという考えでした。
当時の六甲山では、苗木を植えても雨が降るたび全部流されます。だから最初に行ったのは植林ではありません。

最初にやったことは、

  • 石積み

  • 谷止工

  • 積苗工

  • 土砂を止める工事

です。つまり、「森をつくる前に土をつくった」
ということです。
これは現在でも治山工学の基本思想です。 

積苗工は、

山の斜面
野芝
苗木
稲わら

石積み

という構造を取りました。

石で土を受け止める


土を流さない


そこへ苗木を植えるという構造で、
これは、現在でも治山工学の基本思想となっているものです。

⑤ 最初にどのような樹木を植えた?

資料によると、

クロマツ

ヤシャブシ

が植えられたとされています。

これは、極めて痩せた土地でも育つ樹種だからです。

本多静六は最初から照葉樹林を作ろうとは考えていませんでした。

クロマツ・ヤシャブシ

広葉樹林

自然林

という段階的な森林形成を考えていました。

⑦ 大規模植林へ

その後、神戸市は、600ha。
さらに、約1,074haを砂防指定地
として事業を拡大します。
約13年間、国庫補助による砂防工事が継続されたようです。
苗圃まで整備され、数百万本規模の植林が進められました。

⑤ 試験植林

明治35年。
まず約0.68haだけ試験的に施工しました。
結果、1年後には苗木が定着し始めます。
この成功を受けて、神戸市は、大規模植林へ移行します。

⑧ 本多静六が危惧していたこと

昭和14年の講演では、本多静六は、せっかく育ち始めた森を

乱伐
山火事
無秩序な道路開発
無計画な開墾
で再び失ってしまったことを厳しく批判しています。

つまり、森は植えて終わりではない。
守り続けなければ意味がないという考えでした。

本多静六の六甲山再生思想(まとめ)

一言で言えば、

「森は植えるものではなく、育つ条件をつくるもの」

という思想です。

そのために

土砂を止める

土を作る

先駆樹種(クロマツ・ヤシャブシ)を植える

森林を育てる

広葉樹へ自然遷移させる。森を守り続ける。という長期的な設計を行いました。

現在、緑豊かな六甲山の森林環境があるのは、この治山・砂防・植林を一体化した考え方が出発点となっています。 

年表を○○

問い①

何故、初期の段階で植えたのが、
ヤシャブシとクロマツなのか。

自生する植生を考えると、
クロマツではなく、アカマツであり、
ヤシャブシを見ることはほとんどないが。

調べ ①

ヤシャブシ(Alnus firma)は、カバノキ科の落葉高木。
特徴は、やせ地でも育つ、崩壊地でも根付く、成長が速い、
根に「根粒菌」を共生させる。空気中の窒素を土壌へ供給できるという、
土づくりのための樹木である。
つまり、「森を作る木」ではなく、森が育つ土を作る木としての選択である。
クロマツは、「最も過酷な場所でも生きる」ことに特化しており、
一方、アカマツは少し土ができ始めると勢いを増す。

では、なぜ最初はクロマツだったのか?

古い写真で確認する限り、当時の六甲山は、土がほとんど存在していない。花崗岩がむき出しである。
この状態では、アカマツでもかなり厳しい環境だったのではないか。
そこで、本多静六は。まず

ヤシャブシ

クロマツ

という、最強クラスの先駆植物を植えています。

Q: では、なぜ現在はクロマツが少ないのか?

・植生遷移
クロマツは、非常に日光を好み、
森が閉じてくると、自分の子ども(実生)が育たなくなります。
つまり、クロマツ自身が森になると更新できなくなった。

さらに、六甲山では、1970年代以降、クロマツ・アカマツともに マツ材線虫病の被害を受けたようです。

・内陸環境
六甲山は海岸環境ではなく、ある程度土ができると
クロマツよりアカマツの方が適応しやすくなる。


・ 天然更新

アカマツは、六甲山の気候に非常によく適応しています。
自然更新が盛んに起こり、徐々に、アカマツ林へ移行しました。

Q: ヤシャブシはどこへ行った?

これも自然です。ヤシャブシは、典型的な先駆樹種です。
役割は、土を作る、窒素を供給する、他の木を育てる、
ここまでです。

この後、森が暗くなると、光が足りず、次第に姿を消します。
ですから、現在の六甲山でヤシャブシが少ないことは、むしろ健全な森林遷移が進んだ証拠とも言えます。

六甲山で実際に起きた遷移

概ね次のような流れだったと考えられます。


裸地

 ↓

積苗工・石積み

 ↓

ヤシャブシ・クロマツ

 ↓

アカマツ林

 ↓

コナラや現在のリョウブ・ソヨゴ・アセビ・ヤマザクラ、ヤブツバキなど高・中・低木で立体的に構成された現在の豊かな森林

 ↓

やがて、シイ・カシなど照葉樹林へ?


Q: コナラを高木とした植生が一定の安定を得ているように思える。ナラ枯れが発生した事によって、次への遷移が起こるかなと思えたが、
コナラがそれにも耐えたことにあり、照葉樹林への遷移の兆しが今の所見られないが、
六甲山の植生はどのよう変化し、やがては、一体どのような極相を向かえるのか

問い②

コナラが現在の最近までの主木になっていたのはどういう理由か?
自生したとは思えず、本多静六の植林計画に含まれていた訳でもないように思える。

里山としての機能で薪炭のために植えられたものが定着したものなのか?